20240320

 自分の書いた文章がなにぶん嫌いなもので、ブログなどはすぐ消してしまうのだが、ここが残っていたのを覚えていたわりに長らく放置していた。

 いざ過去に書き連ねたものを見ると、丁寧に書かれている。この頃の特有の繊細さは今の自分にはないのだろう。子供の頃から家族が私を苦しめていたことにようやく気づいてからは、絶縁を決めて、頼りない自分の稼ぎで一人暮らしの日々を繋ぎ、摩耗していくだけだった。

 誰からも必要とされていないのに、自分が生きるためだけにこの世にしがみつく。自分だって自分がいらない。毎日が限界で、朽ちて消えてしまいたかった。いつ死んでもよかった、それが唯一の安心だった。死ぬ勇気がない、そんな檻でただ命が守られていた。

 そんな私を愛してくれる人が、どうしてかいたわけだ。俗にいう理解のある彼くんが登場する。神様の戯れで今はご機嫌に生きている。なんだ、昨日まで死にたかったんじゃないのか。不幸話はここでおしまい。また都合よく恋人が出てくるお話だ。解散。

20220716

 おすすめの美術館を教えてと言われ、仕方なく国内の展示を見ていくと、人酔いしたかのような気分の悪さに見舞われた。奇抜な色、大きすぎるもの、よくわからない装置のようなもの、がらくたのようなもの。

 自分の絵はちっぽけでいらないように思える。その通りではあるけれど。必要とされるために描いているわけではないから。今の世の中、絵画なんてもうメインカルチャーではないんだろうな。
 気分がどんどん悪くなって、横たわった。これが世界の前提なんだ。誰にだって誰にとって自分はいらない。ただいるだけ。必要とされるために叫ぶようにコンセプトを書き連ねない。つまらないと言われても、生まれてきただけ。そんな絵しか自分はいらないし、そんな絵が自分には必要だ。そんなことしかできない。

20211129

 誰もかれもが、誰かと比べ、誰かより優れていようと、いつもそこには競争ばかりで。仕事から、なにから、日常のつまらないことや、芸術の世界までもが競争。

 自分は日常を静かに暮らしたい。誰より優れてるとか、劣っているとか考えていたくない。自分の価値で生きていたい。他人にはつまらなく映ったっていい。

 

 学生だったときは競争の中でやる気に満ち溢れ、認められるために一生懸命だったし、そのぶん人を見下したりもしてきた。卒業をしたときにようやく目が覚めて、自分のしてきたことが愚かしいようにしか思えなかった。結果として成果が残ったこともあったが、他人と常に競争に晒され、埋もれてしまわないように努力していた自分が、本当に醜く思えて頭から離れない。今でもたまに嫌な自分の姿がフラッシュバックする。

 

 誰かを出し抜くための生き方は、うんざりだ。誰かを踏みつけて優越を感じることが自分にとって完全に罪悪となった。みんなが立っている土俵を見ながら、そこへ降りていくことは諦めではないと。

 

 闘志というのは手っ取り早く自分を動かすエネルギーになるが、そんなものを使って絵を描きたくない。自分のやりたいことに、そんな感情を交えたくない。つまらない潔白さのせいで、私は絵を描けなくなった。逆に言えば、闘志だけで今まで描いてきたから、描けなくなってしまったんだ。でも、それによって筆が止まることは、この思考が正しかったと証明しているように思う。次に描く絵が自分の思う形でできる気がしている。純粋に自分のために描きたいという思いが生まれてきている気がする。

20111108

 土日に木の剪定をした。数年前にこの借家に越して以来、庭木を切るようになった。なにぶん素人なもので、YouTubeで剪定方法を調べながら切っている。CODIT論を紹介する動画をみた。それから自分の木を見る目が変わった。

 

 近くの並木を眺めたとき、剪定された切り口に目を当てると、たいていがむごたらしいものだった。正しく切られた木を見ることのほうが珍しく、そうでない木は枯れが入っていっている。ちょっとした知識をつけたことで、木の苦しみというのが見え始める。庭師の人に頼んだって、見た目のきれいな庭は手に入っても木を想った切り方ではないというのが衝撃だった。

 美しい庭を見て、綺麗に整えられた枝木に人は感動するが、木には負担がかかっているということ。正しく切らなければ、植物が弱ってしまう。そもそも剪定する行為そのものが木にとって不要であり、人の都合によって剪定されるということ。

 

 人は無意識に善くあろうとするし、独善的であるのは、それは仕方のないことだとしても、その善について顧みなければ、誰かを苦しめていることにも気づかない。

 そんな細かいことなんて気にしてられないのが人間だし、いちいち傷ついてへこんでいられないだろうけれども。

 常識や良心というものが共通理念のようになっていくのは、独善を正当化するための、誰かの傷を無視するためのものだとしたら。

 そうは言っても、思うがままに切り、綺麗な庭を眺めるのが楽な生き方ではある。植物が苦しんでも自分が生きてる間は枯れないかもしれないし。気にしなくても人間にとっては何も問題がない。結局木を切ることに変わりがないのだし、どちらも結局エゴで終わる。気にするほうが馬鹿げているといえばそうかもしれない。