20111108

 土日に木の剪定をした。数年前にこの借家に越して以来、庭木を切るようになった。なにぶん素人なもので、YouTubeで剪定方法を調べながら切っている。CODIT論を紹介する動画をみた。それから自分の木を見る目が変わった。

 

 近くの並木を眺めたとき、剪定された切り口に目を当てると、たいていがむごたらしいものだった。正しく切られた木を見ることのほうが珍しく、そうでない木は枯れが入っていっている。ちょっとした知識をつけたことで、木の苦しみというのが見え始める。庭師の人に頼んだって、見た目のきれいな庭は手に入っても木を想った切り方ではないというのが衝撃だった。

 美しい庭を見て、綺麗に整えられた枝木に人は感動するが、木には負担がかかっているということ。正しく切らなければ、植物が弱ってしまう。そもそも剪定する行為そのものが木にとって不要であり、人の都合によって剪定されるということ。

 

 人は無意識に善くあろうとするし、独善的であるのは、それは仕方のないことだとしても、その善について顧みなければ、誰かを苦しめていることにも気づかない。

 そんな細かいことなんて気にしてられないのが人間だし、いちいち傷ついてへこんでいられないだろうけれども。

 常識や良心というものが共通理念のようになっていくのは、独善を正当化するための、誰かの傷を無視するためのものだとしたら。

 そうは言っても、思うがままに切り、綺麗な庭を眺めるのが楽な生き方ではある。植物が苦しんでも自分が生きてる間は枯れないかもしれないし。気にしなくても人間にとっては何も問題がない。結局木を切ることに変わりがないのだし、どちらも結局エゴで終わる。気にするほうが馬鹿げているといえばそうかもしれない。